I'm happy with you
いわゆるイタい文章やお気持ち表明をしたくないな、と意識し出したらブログ更新がとまってしまった。毎日、楽しく生きています。
life hack / Vaundy :MUSIC VIDEO
最近のこと。
とある日、朝まで友人と雑談をしていた。高校時代を思い出す。思い出話や今後したいこと・ゲームのことなど、話そうと思ったらいくらでも話せる気がする。
気のせいだから睡魔に負けた。
また別の日、東野圭吾『容疑者Xの献身』について語り合う機会を得ていた。
次に、人と本について意見交流をするのはいつになるんだろうか。
本棚を眺めていると、その本を手に取った書店のこととか、当時のこととかが浮かぶ。
父と書店に行くと必ず、「なんかいい本あった?」と聞かれる。
「いいよ、ゆっくり見てね。せっかくだからお家で読んだら?」と続く。
帰りがけには、声をかけて本を差し出すまでがセットだ。
父は、車から降りると私に自分の本を袋ごと渡す。たぶん、知らないんだろう。
私が何の本を買ったのか。
レジに出す時とか見えることはあるだろうけど、それを意識して見ることをしない。
時折、「最近面白い本あった?」「最近、どういう本読んでるの?」と聞いてくることはあっても、問いただしてくることはない。
いつだって無理に「好き」を暴くことをしなかった。
この行動はずっと前からあったけど、こんな風に思うようになったのは最近のことだから、父にとって意図はなく、無意識なのかもしれない。
それでも、私にとっては、居心地の良いものだった。勝手に安心していた。救われていた。
先輩から、家族の話が多いね、優しい人ばかりだねと言われる。あくまで私目線の話だから、本当にこの通りなのかと言われたらよくわからない。
父も母も神様じゃない。良くも悪くもありふれた人間だ。
もちろん私も。
家族に対して、日常生活で思うところはあまりないが、「短所をあげよ」と言われれば、それはまぁいくつか上がる。何より私の性格がサイアクなので、嫌なところに焦点を当ててしあえば…。もちろん、ここでそれをあげるのはあまりにもアンフェアだし、かといって彼らがいるところで挙げることも、私的には許容しがたい行為である。それはもはや暴力。
さてさて、いくつかある次の読書会候補の本。その中の一つが、中山七里の作品だ。
私の本棚には、『さよならドビュッシー』や『さよならドビュッシー前奏曲』がある。
このシリーズの中で『おやすみラフマニノフ』が無かったのはなぜだろう。思い出す。
中学時代に生徒会の仲間に借りたのだ。
そういえば、どんな経緯で発覚したことかは忘れたが、会長だった私と彼を含む副会長二人の志望校が一緒だった。
いや、私の母がどちらかといえばあまり偏差値の高い高校には行ってほしくなさそうだけど、個人の意思を尊重する家庭だから反対もしてこなくて、でも行けるから、知り合いが通ってたから、一応志望校というだけで特に行きたい理由はない…逆に申し訳ないって伝えたら、二人が声をかけてくれたのか。
「皆で頑張って同じ高校に行こう!」と。
そんなようなことを言われたが、今のままで十分合格圏内であるし、一緒に集まっても生徒会の仕事をしているだけで、特段勉強もしていない。何の効力もない、その場のノリでできた精神的な約束のかけら。
生徒会室の鍵は閉めにくかった。鍵閉めに戸惑っていると、なんでもない口調で、ラフマニノフを貸してくれた子が「そういえば、普通科じゃなくて音楽科の高校行こうと思う」と伝えてきた。
眩しかった。第一に、やりたいことがはっきりしていることに。
実は、家政科に行くことも検討したが、そこまで将来のことに責任をもてず、とりあえず高校は普通科にしたのだ。他にもいくつか理由はあるけれども。
そして、何でもないことのように伝えたことに。
(もちろん、上記のように私はそこまでこの話を重く捉えていなかったので全く問題はないが。) 何でもないように伝えた方が救われることもあるだろうから、今ならその道を選べるかもしれない。だけど、当時の私がその立場なら、申し訳なさそうに、謝りながら伝える方法しか知らなかったし、それが正しいと思っていた。優先すべきは自分の決断・将来だとしても、誰かを傷つける可能性があるから。
私の中の(あくまで私の中の)大前提として、いかなる理由があろうとも人を故意に傷つけるような言動をとることはとても良くないことで、故意でなくとも人は傷つく。人を傷つけてしまうこともよくないことだ。
何が正しいのかなんてわからないし、正しさだけじゃ救われないものもあると思うのでそのあたりはお手上げしときます。
当時は、そんな“可能性”に臆病になっていたのだろう。
基本的に、今と同じく毎日楽しく充実して過ごしていたが、
ふとした時、誰かのなんでもないような一言まで自分のことを責めているようにきこえていた。傷つけられていると。
自分の中の後ろめたさや負い目、自信のなさによって、勝手にフィルターをかけて誰かの言葉の揚げ足をとっているだけかもしれなかったのに。
漠然とした自信のなさの理由付けをするように、また理由をすり替えるように、誰かのいつかの言動を拉致してきて、記憶の補正で形を整える。だって、誰かに言われたから。誰かのせいで。
“他者由来の自信のなさ”の出来上がりだ。
想像力豊かな私にとって、被害者になるのは簡単かもしれない。楽だし~。でも、その時、(もしかしたら勝手に)誰かを加害者にしていることに無自覚になりたくない。相手が誤解を招く言い方云々とか色々あるだろうけど、ここではいいや。
もちろん、繰り返すけど、いかなる理由でも人を傷つけてはいけないように、いかなる理由でも私が傷つけられてよい理由にはならない。
もし、傷つけられたら私は絶対に、「傷つけられた私」のことを大切にする。慰める。
メンタルがド安定しているのと、周りの人に恵まれているで、ここ数年、あまり傷ついたことはない。もし傷つけられそうなら、人間形態から変形したい。ダイヤモンドになりたい。どうせなら磨かれたい。嘘です。やっぱり、ラピスラズリがいいな。
もしくは、ターボエンジンになりたい。その負のエネルギーで作動します。
何でもないことで本気で傷つき、悩んでいたことを抱きしめたい。
悩むことも嫌いじゃないし、むしろ好きだし、今につながっているので、よいが、不必要に傷つかなくてもいいんだよ。
むしろ虚無ではないが無からよく、傷をつくれた!すごい!無から生まれた傷
でも、加害者を勝手に作っていたというのは穢れ。
あと、傷ついたことをあんまり教えたくない。傷を披露して、「そんなことないよ」のカツアゲをしない人間になりたい。
やっぱり、何もかも強要する人間になりたくないよ~。
無意識に人にそれを求めてしまってるのかもしれないけれど。
言葉をかけてくれる人のやさしさや、そんなことないという事実や視方から発せられた場合ももちろん多い。気遣っていってくれたこともあるだろう。
私だって、たくさんの何気ない「そんなことないよ」に救われた。
周りの人を大切に~とか思ったって、究極的には 、いつだって自分のことしか考えていないし、自分のことでいっぱい、いっぱいだ。
そういう言葉を無意識でも求めてしまうのかもしれない。
言ってくれたら嬉しいだったことに、いつの間にか慣れて、皆のやさしさに甘えて、言わなかったらひどい!に変換しないようにしたい。穢い。
今でも、「そんなことないよ」って言われたい朝も昼も夜だってあるのだけれど。
幸せになる覚悟、幸せを受け入れる覚悟をもって、今とその時を楽しむ準備を万全にしたい。
たぶん、私は一人でまだ準備中です。でも。