さかなになりたい

 

タイトルはthe cabsの「camm aven」の歌詞から。このブログ記事は、タイトルが思いつかないまま下書きに眠っていた。年齢を重ねるその前に手放しておきたかったのでこの曲を聴いたのちに、慌てて投稿している。あと数日で現在の下書きを手放すことができるのだろうか。

 

言葉の響きで決めたタイトルなのだけれども、「camm aven」の意味について、作詞の高橋國光が語るインタビューがあるのでどうぞ。正直、驚いたのだけれどもよくわかりません。(公式のYoutube動画はない)

https://rooftop.cc/interview/111202175113.php?page=2

 

※下記の内容についても、雰囲気と思い出で書いているので専門的なことはわかりません。

 

 

ここから眠っていた下書きまんま。おはよう。

 

岡本かの子の『金魚撩乱』や室生犀星の『蜜のあわれ』だったり、どうやら“赤い”女の子が好きなのかもしれない。そういえば、『シンドラーのリスト』を見て赤いワンピースが欲しくなったと言ったら友人はかなりひいていた。

 

いや。『金魚撩乱』の真佐子は“赤い”女の子だろうか?そんな描写があったかなんて思い出せない。

どこからやってきた。この赤。

 

 

『金魚撩乱』も『蜜のあわれ』も、金魚に女の子を重ねているからか。真っ赤な金魚。

 

あれは赤なのだろうか?

 

昔から、見えているもののかたち、特にその色が不思議だった。

生憎、想像力豊かで素敵な疑問を抱く少年少女のように、「どうして空が青いのか」なんて考えたことないのだけれども。どうしてあの空の色を青っていうんだろう?空って青色か?

あの色って、そもそもなんだ。

 

 

色覚。

色は物質にはついていなくて、光の波長の識別によって脳が色を塗っているような状態だって?そこにあるものを「見えるようにしか見えていない」いや、「脳が識別して見えるようにしか見えていない」って?昔は混乱していた。今も分かりたくないし、たぶん分からない。

じゃあ、脳を通さないで、そこにあるがままのかたちは色はどうなっているの。

私が好きな“あれ”は、本当はいったいどんなものなの?

 

 

誰かが決めた「赤」とか「青」とかの言葉。

自分の目や脳を通して、誰かから決められた言葉を通してしか世界をみられないことが、きっと当たり前なのかもしれないけど、少し不気味だった。

 

 

 金魚。

祖父母の家にいる立派な大きい鯉よりも、出目金が好きだった。

小さくて、不格好で、他の魚と同じようには輝いていない、あの黒一色の魚。

 

金魚は、尾びれとか身体が変色する病気にかかりやすい。どの魚がなっても悲しかったし、治療に取り組んでいたけれども、中でも出目金には少し贔屓していた。水槽の傍で図鑑や治療法の写真とその様子を一生懸命比べてみていた。

 

あの黒だけは、変わらないでいてほしかった。

 

何かこれといった不安があったわけではないのだろうけど、あの頃は、そこに変わらない黒があると安心できた。

 

赤色は不透明で、黒は透明だった。

どうしてだか、あの頃の私にとって、黒は絶対的で透明な色だった。

光のことを考えていたからだろうか。

 

珍しい魚を別で飼ってみることもあったけれど、出目金がいないのはなんだか落ち着かない。でも、出目金のことは出目金としかよべない。他のペットのように、それぞれの個体に名前とかつけていたわけでもない。

 

贔屓しているのに、少し遠くてこの距離感がもどかしくて、おかしかった。

きっと、あの魚のかたちも好きだったけど、それ以上に私は安心を求めていたのだろう。

 

 

魚と暮らしても、あの水槽の中の世界を眺めることしかできないのだけれど。

 

 

 

考えたって答えの出ない不透明さと向き合うのは時に毒となる気がする。濁ってゆれる水面を見つめていると不安になってしまいそうだ。

 

 

何も考えず。何も分からないまま。今日も目を閉じる。

 

 

「さかなになりたい願いは叶わない」

 

 

おやすみなさい

 


the cabs"anschluss"