手に入らないもの、苦手なものの話。

手に入らないもの、苦手なものの話。

 

 

 

どうして私は光合成できないのだろう。カーテンから差し込む太陽光を浴びる。寝そべる。最高。

 

どうして人間は光合成ができないのだろう。葉緑体がないから。生物の授業で植物細胞と動物細胞の違いをきいた。先生の書く細胞はチャーミングだった。液胞・細胞壁葉緑体がその主な違いとして教えられることが多い。
でも、本当は、動物細胞にだって液胞は微妙にあるのだ。電子顕微鏡でみたら確認できるレベルで、発達してないけど。
あるのだ。

だから、葉緑体だって。もしかしたら。
僅かな期待をもっていた。訂正。未だにもっている。どこにあるんですか。私の葉緑体。おいでよ、シアノバクテリアミトコンドリアとお待ちしています。


昔、祖父母の家にある顕微鏡で一生懸命探したけど、やっぱり私に葉緑体はないらしい。それどころか、電子顕微鏡ではないから、液胞も見えなかった。あるはずなのに。

 

顕微鏡といえば、レンズを覗き込むのがこわかった。それに下手だった。真っ暗な世界が映ったり、そこに自分の目やまつげが見えたりした。目。角膜はレンズの役割をしている、ときいてから私の中では目=レンズだった。私のレンズはぽんこつだ。乱視。レンズはどうやらゆがんでいる。


夜、誰も見ていない後部座席でそっと眼鏡を外して目を細めると、信号の光、ヘッドライトの光、電光掲示板の光。形をとらえられず、ゆらゆら踊る色とりどりの光が私のもとに集まる。目を細めて見てはいけないと言われていたかけど、あの光を見るのは好きだった。でも、見つめていると不安でたまらなくなってくる。眼鏡をつけて、フロントシートに座る両親に声をかける。もとの世界に帰ってこられた。

 

 

あだしごとはさておきつ。植物の話だ。
植物を見るのが好きだ。幼いころは植物園にもよく訪れていた。


でも、花の蜜を吸うことだけは、幼いころから頑なに拒んでいる。
最近は、人生で一回くらい経験してみようかと思ったけど、なんだかこわい。幼稚園を囲っていたツツジとサツキ。小学生になってからも、仲良しの上級生とかが吸い方を教えてくれようとしていた。皆が蜜を吸う中、散らばる花弁にそっと触れていた。露に濡れていたのか、幼児の体温だったからか、ひんやりと感じられて不気味だった。

 

 

 マイナスな言葉で自分をつくりたくない私にとって、「苦手」はだいぶグレーゾーンの話題だったりもする。数々の食べ物において食わず嫌いを20歳まで発揮しているけど。

 

好きなものも、苦手なものも話もしなくなったらぼんやりした私になってしまった気がする。諦めたくないけど、諦めたら息がしやすい。諦めってよびたくない、赦しだ。
おっけー。

 

赦しがでたので「苦手」話解禁。
自分の身体を見ることも苦手だ。こうして文字を打つたびに、動く手の甲の骨がこわい。さすがに、意識しなければわりと大丈夫だけど。手首の脈をはかるのは、手首の内側に触れるのは本当に恐ろしい。首の脈は平気だ。そういえば、喉仏は英語で、「Adam's apple」と呼ぶらしい。でも私はリンゴじゃなくて、とうもろこしがある気がしていた。食べてないから違うだろうけど、とうもろこしが詰まっていて、運が悪いと喉の中のとうもろこしが動いて呼吸ができなくなるかもしれない。

 

野菜と果物が少し苦手だ。特に種があるもの。命ってかんじ。魚やお肉よりも、そう感じる。

 

野菜の中で、根菜と葉物はわりと食べやすい。でも、葉物の野菜を食べるときは、その緑をにらみつける。こっちにきてよ、クロロフィル。口の中に取り込んだって、私のものにはならない。葉緑体。悔しい。

 

 

ご飯を食べることが一時期苦手だった。食べ物ガチャ。朝ごはんを食べていると、油の乗っているものを食べると、野菜や果物を食べると、突然ガチャが回る。爆死すると、逆流しそうになる。食欲不振や嗜好の変化、食べ物のにおいで気持ち悪くなることも。症状を検索すると、妊娠初期のつわりの症状と合致した部分が多かった。とりあえず、つわり(仮)だと認識して生活していた。

 

いつも間にか、つわり(仮)は治っていた。ご飯を食べることにも、以前よりは前向きになった。光合成したいけど。

「白米飽きた」とか突然言い出した娘に雑穀米とか赤飯を出してくれる両親に感謝。

 

両親の存在は、生活をする一つのひっかかりかもしれない。理由とは言いたくない。
昨日丁度母に、「さすがにママに(私の)葬儀の準備はさせないように、頑張るよ」と言ったばかりだ。

母は、「いや~、あなたに迷惑かけないように、ママはぽっくりいきたいよ」とよく言いう。大きな病気をしているわけでもないのに。
迷惑かけてほしい。これはエゴ。
母の軽口を笑って「ハハハ。私の方がぽっくりいくかもやん?」と流すところまでが一セット。母の眼を見られない。冗談でも、そんなこと言わないでほしい。これもエゴ。

 

そういえば、両親はゲームをやらないし、漫画も読まないし、アニメも見ない。私たちがやる分には、いっさい規制しないし、好きなだけやらせてくれた。小さいころは、大人っていうのはそういうものだと思っていた。

大学生になって、世間ではご飯の時に炭酸飲料とかあんまり出ないって知った。
子どもが喜ぶから、という理由でよく我が家には並んでいた。

 

今はご飯の時にワインを飲んでいる。私だけ。やっぱり、私が喜ぶから、なんだろうな。
毎日飲むと身体に悪くないか、と尋ねたらポリフェノールだから大丈夫って言われた。じゃあ、チョコレートのカカオポリフェノールだとなお嬉しい。

 

ワインを飲めるくらい大人になった。でも、夜、いまだに一人で階段をおりるのはこわい。壁をつたいながらそっとおりる。「いまだに」?
いつからだろう。ずっと昔は怖くなかった。大人になったから怖くなったのかも。

 

自分の言葉を口に出すのは割と好きだ。でも、この文章を読み返すのは恥ずかしい。
本当は、小説の感想を書こうとしていたのに、どうしてこうなったんだろう。不思議だ。

 

できなくたって、エネルギーを生み出せば実質光合成か。
今日も明日も、日向ぼっこに励みます。これが私の光合成

おやすみなさい。よい夢を。