久しぶりに晴れた7月10日

色落ちした紫陽花は花屋に並んでない。

紫陽花の枯れ方って色落ちっぽい。

洗濯したときの、あの感じ。どこに移ったんだろうね。

 

五月六月は、紫陽花を見つけるたびに嬉しくて写真を撮っていた。

庭にいる紫陽花とはやっぱり色が違うんだ。

今年の夏はガクアジサイの背が伸びなかった。 ちょっと見下す。

高いところを歩いてみたいし、飛んでみたいけれども、花にふれるためにしゃがむことは好きだ。そんなときは、もっと小さくなりたい。

 

 

琥珀糖が届いた。

お~。「食べる宝石」って売り出されてるらしい。きれい。おいしい。糖分。

みてるのもたのしい。綺麗だったり面白い石とか拾うの好きです。

 

昔、輝く夜空をずっと閉じ込めたみたいな、宝石みたいな紫陽花の写真をみた。嬉しくて、声をかけたら「え?なんか人工的で怖くない?」って言われたのを思い出す。

当時は、「そうかな~」って言ったはずだけど、今なら「たしかに~」ってなる。

とっても品種改良の結果です。

宇宙っぽい。地球で自然に生えていたら、びっくりするかも。

 

思い出連想検索、文章を書いているとおきがちで案外楽しい。

 

たしかに、思いえがくほど、夜空は輝いていないかも。

たしかに、きらきらってよりギラギラのお花はちょっと怖いかも。

でもたまに、あの紫陽花思い出して欲しくなる。やっぱ、かっこいい。

宇宙、手に入れたいじゃん。

 

 

宇宙の色落ちみてみたい。

 

 

 

この前、友人のギャル(?)  ※ロングネイルはギャルっぽいかも(本人談)が

「推し」について「なんか、いつか終わるんだな~って思ったら、こわくなった。こういう怖さを感じるなんて、あたしもこれで人間って感じ?」って言ってて、

「「諸行無常じゃ~ん」」って嬉しくなっちゃった。

ほんとかな。万物流転。

徒然なるままに、諸行無常、春はあけぼの、とかなんとなく使いたくなる。そういうお口。

 

でも、爪のデコデコキラキラが眩しかった。死んだ細胞がもう一度輝いている。

諸行無常盛者必衰からの蘇りカムバ栄光じゃん。

 

 

諸行無常」打ち間違えて「諸魚無常」になっていた。おさかな。

 

辻真先先生とか皆川博子さんとかを見ていると、もう少し、いやもっと生きていってもいいかな、という気持ちになる。お先真っ暗どころか、お先ぴかぴかです。いいね。

 

 

昨日、今年初めて蝉が鳴くのをきいた。曇り空だったのに。

 

 

夏、あついね。

まだもふもふの毛布に包まっているのですけれど、そろそろ脱皮するころかもしれません。

 

冷房いれて寒いな~ いれなくて暑いな…ってなっているときは、煩わしくてちょっと楽しい。

 

 

もう書かないかもしれないな、といつも思うから、脱線しているなと思ってもそのままお話走らせています。この前書いたの、年単位で前だって。笑っちゃう。

 

左腕、パソコンは問題なく打てるけど、なんか二の腕まだちょっとピリピリ筋肉痛

 

夏の話していたら、綿菓子食べたくなっちゃった。ふわふわのおっきいやつ。

自販機で綿菓子売ってたらいいのにな、それってティキィちゃんのか。

 

21時に眠気のピークがきます。おやすみなさい。

 

 

 

ここまで、7月10日に書いてた。晴れて嬉しい、夏だね!の気持ちだった。

 

寝てた。

お蔵入りしようかと思ったけどせっかくなので。たぶん綿菓子じゃなくてポップコーンだ。

7月11日、急に激しい雨が降ってきた。また傘を買ってしまいました。

 

おやすみなさい。

 


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冬宵一刻

茶店の定期券を更新する。

一月通い詰めていた珈琲の美味しい喫茶店。空間が好き。

マスターには定期券利用率がナンバー2だと伝えられた。

常連、っぽい。常連っぽいムーブをしている。嬉しい。

「じょうれん」口に出すとなんだか心躍る響きだ。「じょうれん」

 

文字にしたらそうでもなかった。

 

一月。日付や時間の感覚があまりない。12月にしては今年は暖かい方なのも相まってかな。 ただ、毎日飲んでいた紅茶の茶葉が少なくなったとか、定期券が切れるとかそうしたことでなんとなく時間の流れを感じる。消費だ。

 

 

 またこの記事は下書きで冷凍されていました。

何かをためてしまう度に自分の至らないところだ~と思う。至らないゲージ上昇中。

 

 

ためてしまうと言えば、随分前に登録した懐かしの読書メーカーは、思い出した頃に記入しているけれども、なかなか思い出さない。7月に書いたのが最後みたい。知らない人が書いた言葉みたいで怖かったけど、自分が書いたらしい。不思議だ。

「いつかやりたい事リスト」に読書会が入っていることは忘れないようにしないと。メモ。

 

知り合いから耳に挟んだFilmarksのアプリも入れてみて久しい。

久しいけれども、まだ何も投稿してない。

 

お喋りなので、頭を空っぽにしていると無限にお口が動いてしまう。ペラペラペラオ

お口っていうよりも指か。

でも、いざ「投稿しよう!」と思うと身構えてしまうのかもしれない。かもしれない。

 

 

部屋を掃除していたら、2年くらい前にメモしていた映画の感想が出てきた。

字が下手なのでメモが出る度に、少し複雑な気持ちになる。

頭からっぽメモだった。「ローマの休日」、ひたすらオードリーと洋服、イタリア語についてメモした後に、≪アメリカ人新聞記者と上司のやり取り”たまには早起きして朝刊でも読んできてほしいね””ベッドのスプリング検査官にでもなったら?”≫と書いてた。

≪”ベッドのスプリング検査官にでもなったら?”≫洋画のこういう言い回し好き。

ベッドのスプリング検査官?とってもなりたい。 

 

ローマ!行きたいね。誰か行こう!エジプトも行きたい。随分前だけど、「ナイル殺人事件」見た後で、両親のアルバムからSofitel Legend Old Cataract Aswan出てきて羨ましくなっちゃった。

両親のアルバム話シリーズ。焦ることは全くないけれども、憧れをもったら、できるうちに、すぐに行動したいね。コロナ禍~。

鶴岡八幡宮公暁みたいに将軍暗殺ごっこをしたかったんだけど、隠れ銀杏は倒れてしまった。推しは推せる時に推した方がいいし、暗殺はできる時にした方がいい。銀杏が倒れたら(たぶん)実朝は倒せない。無念なり。

 

 

後は、父さんと死ぬまでにマチュピチュに行きたい。

ナポリも見てないから死ねないや!

 

旅行行きたいなあと外を見ていたら、今日は空の色が案外青かった。驚いてしまった。青空。青空は案外年中無休。

 

 

今日ではない日のこと。

法事があった。法事。その日のことを、昨日のように覚えているのに。

朝、起きて何の講義を受けていて、いつ連絡を受け取って、どの時間の電車に乗ったのかたさえ覚えているのに。

覚えている?

10年も20年も経っているような気持ちになるし、自分が経験したことではないことのような、物語で読んだような気持ちにもなる。

不思議だね。世の中、不思議でいっぱいだな~。

単純なことを複雑にして「不思議」にしているだけかもしれないけど。

不思議。不思議。不可思議。 

 

 

しばらく人と暮らしてみた。

人と暮らすの、良い。

人と料理をつくるの、よい。あたたかい。

カレーをつくった。

洗い物をした鍋を渡すと、他の人が火にかける。流れるような作業。脱:孤独。

じんわり広がる温もり。ゆっくり燃え広がる炎。

炎。炎。炎?

ボヤ騒ぎの一歩手前だろうか。炎が紙の上を広がるのを二人でぼんやり眺めていた。

洗い物をした後、私がキッチンペパーごと渡した鍋は、そのまま炎にかけられていた。

キッチンペーパーはよく燃える。直接火にかけると尚のこと!

 あたたかい

 

 

この後、「昨日は」とだけ、下書きに書いてあるんだけど、「昨日」がいつのことなのかすら分からない。なにがあったんだっけ。昨日のように覚えているなんて嘘だ。昨日のことも思い出せない。

 

 

いつまでも、「朝目を覚ますときの気持ちは面白い。」って思っていたい。お気持ち表明。

まずは、朝、目を覚ますことから始めないといけない。

きっと冬も、冬の夜さえあっという間だって。

 

おやすみなさい。よい夢を。

 


LiSA 『炎』 -MUSiC CLiP-

言ノ葉不足

 

気づけば5か月も新しい言葉がこのブログには紡がれていなかったようで。

私の方は、半年前と特に変わらず、元気にやっています。

 

少し嘘です。

半年前とは少しだけ、生活の拠点が変わった。

故に(?)思うのです、「言葉が足りていない」と。

 

 

5か月の間、下書きに残っている『海辺のカフカ』の話とバンドの話があるので、それもいつの日か、どこかで陽があたるとよい。葉には日光が必要だ。日の目はみなくてもいいや。

 

「言葉が足りていない」ことをはっきり自覚したのは、今朝みたこのコラムを読んだからかもしれない。「人としての生活」してますか…?いや、そんなことを書いているわけではないだろうけど、そんなことを感じたのだ。

峯岸みなみ「アイドル留年中。過去といま、思うことをお話します」 | かがみよかがみ (asahi.com)

 

 

というわけで再開です。ただいま。またフラッとやってきます。森の中にある秘密基地みたいに。

 

 

半年前から変わったのは季節か。冬。11月になったと思えばもうすぐ12月。

冬の服を選ぶのが難しい。

首が詰まった服を着ていると絞首刑をうけている気分になってくる。

最近きているパーカーも、フードの部分が重いのか徐々に自罰が与えられる、

どうやら私は寒いのにも弱い。”良い感じ”の冬服を教えてください。

 

 

冬季限定のチョコレートがでた。欲望との闘い。毎回負けている。

カカオ農園が欲しい。チョコレート×お酒の組み合わせに弱い。洋酒。要注意。

 

 

幸せになる努力を怠りすぎてはいけない気がして、近所の喫茶店の定期券を買った。

幸せになるのに努力なんていらないとも思うけどまあ。「さらに」幸せに。もっと。

QOLをあげようとした、自分を甘やかすとも言い換えられるのかもしれない。

1週間ほど通っていたら、マスターについに声を掛けられ始めた。

茶店の常連(一週間)になりマスターに声をかけられるヤツ!ウキウキして、お洒落な感じで返そうと思っていた。なのに、私がもっていたのが「漢字練習帳」だったため、「漢字練習してるの?」と聞かれた。

お洒落返答難しい。中国語とかで返せばよかったのかな。にーはお。

 

 

生き物とたくさんであった。動物園。ここ3日で3か所回った。

生き物が好きだ。あの空間が好きだ。

私も、檻の中に入りたいというか、あっち側に行ってみたい。

外の景色が変わらないのは退屈だろうか。外にいる来場者は変わるから退屈しないのだろうか。

でも、来場者がニンゲンである限り、珍しくもないニンゲンの需要はないのかな。

ヨソで寝ていたり生活をしていたりする人のこと、あまり興味をもっている人いないもんね。そこに檻と展示パネルがあっても付加価値にもならないか。

檻なら刑務所にもあるし。

 

 

なんとなく、SNSというかTwitterでは、なるべく現在地(場所が限られている現在体験していることへの言及や食べ物など含む)や、顔はもちろん、服とか個人特定されそうなものは避けて、2・3日後に投稿する…みたいな気持ちがありまして、余計に言の葉欠乏に陥りがち。

そんなに広く伝わる恐れはない運用しているから大丈夫だし、あくまで「気持ち」だから平然と忘れてたりするけど。

自分のルールで苦しむのも悪くないかもしれない。良くもない。欲はある。

 

 

本当ならここで、まとまりはなくとも、今回の記事を終えようと思っていたのだけれども。

 

光を当てたい言葉たちはたくさんあって、困っている。まとまらない。

 

どうやら3年前の私は、その葉をしっかり採取していたようで、言葉をまとめたノートが出てきた。言葉の図鑑だ。

今から見返すと、なんだか愚かしくて愛おしいな。

3年前の今日は、中原中也を読んでいたんだって。中也の詩は、実は未発表のものが好きだったりする。「酒場にて」がいっとう胸にチクチクとささる。中也のノート類に書き残されたそれらの詞・言葉が、日の目をみて本当によかった。

 

一応。たぶん定稿が載っていたのだと思う。

角川書店中原中也詩集」 河上徹太郎

(中原中也全詩集 中原 中也:文庫 | KADOKAWA)(同じのはなかったので)

酒場にて(初稿) | 中原中也・全詩アーカイブ for mobile (chu.jp)

酒場にて(定稿) | 中原中也・全詩アーカイブ for mobile (chu.jp)

(余談。これは「山羊の歌」に収録されたものだけど「港市の秋」も当時の私お気に入りらしい)

港市の秋 | 中原中也・全詩アーカイブ for mobile (chu.jp)

 

 

今読んだら、どれが好きだろうか。

半年前とそう変わっていないのだから、半年が6回巡っただけの3年なんて、そんな変化をもたらすほどに大きくはないのかもしれないけれどね。

 

でも、もう私は制服をきないし、言葉の図鑑を開くことすら忘れていた。

 

それでも変わらず、「もっと」幸せになる努力を続けていきたいですね。

 

 

何も解決していないけど。今日はこんなところで。懐かしいものに今でもずっと心を掴まれたままです。


YUI - TOKYO , CHE.R.RY / THE FIRST TAKE FES vol.2 supported by BRAVIA

さかなになりたい

 

タイトルはthe cabsの「camm aven」の歌詞から。このブログ記事は、タイトルが思いつかないまま下書きに眠っていた。年齢を重ねるその前に手放しておきたかったのでこの曲を聴いたのちに、慌てて投稿している。あと数日で現在の下書きを手放すことができるのだろうか。

 

言葉の響きで決めたタイトルなのだけれども、「camm aven」の意味について、作詞の高橋國光が語るインタビューがあるのでどうぞ。正直、驚いたのだけれどもよくわかりません。(公式のYoutube動画はない)

https://rooftop.cc/interview/111202175113.php?page=2

 

※下記の内容についても、雰囲気と思い出で書いているので専門的なことはわかりません。

 

 

ここから眠っていた下書きまんま。おはよう。

 

岡本かの子の『金魚撩乱』や室生犀星の『蜜のあわれ』だったり、どうやら“赤い”女の子が好きなのかもしれない。そういえば、『シンドラーのリスト』を見て赤いワンピースが欲しくなったと言ったら友人はかなりひいていた。

 

いや。『金魚撩乱』の真佐子は“赤い”女の子だろうか?そんな描写があったかなんて思い出せない。

どこからやってきた。この赤。

 

 

『金魚撩乱』も『蜜のあわれ』も、金魚に女の子を重ねているからか。真っ赤な金魚。

 

あれは赤なのだろうか?

 

昔から、見えているもののかたち、特にその色が不思議だった。

生憎、想像力豊かで素敵な疑問を抱く少年少女のように、「どうして空が青いのか」なんて考えたことないのだけれども。どうしてあの空の色を青っていうんだろう?空って青色か?

あの色って、そもそもなんだ。

 

 

色覚。

色は物質にはついていなくて、光の波長の識別によって脳が色を塗っているような状態だって?そこにあるものを「見えるようにしか見えていない」いや、「脳が識別して見えるようにしか見えていない」って?昔は混乱していた。今も分かりたくないし、たぶん分からない。

じゃあ、脳を通さないで、そこにあるがままのかたちは色はどうなっているの。

私が好きな“あれ”は、本当はいったいどんなものなの?

 

 

誰かが決めた「赤」とか「青」とかの言葉。

自分の目や脳を通して、誰かから決められた言葉を通してしか世界をみられないことが、きっと当たり前なのかもしれないけど、少し不気味だった。

 

 

 金魚。

祖父母の家にいる立派な大きい鯉よりも、出目金が好きだった。

小さくて、不格好で、他の魚と同じようには輝いていない、あの黒一色の魚。

 

金魚は、尾びれとか身体が変色する病気にかかりやすい。どの魚がなっても悲しかったし、治療に取り組んでいたけれども、中でも出目金には少し贔屓していた。水槽の傍で図鑑や治療法の写真とその様子を一生懸命比べてみていた。

 

あの黒だけは、変わらないでいてほしかった。

 

何かこれといった不安があったわけではないのだろうけど、あの頃は、そこに変わらない黒があると安心できた。

 

赤色は不透明で、黒は透明だった。

どうしてだか、あの頃の私にとって、黒は絶対的で透明な色だった。

光のことを考えていたからだろうか。

 

珍しい魚を別で飼ってみることもあったけれど、出目金がいないのはなんだか落ち着かない。でも、出目金のことは出目金としかよべない。他のペットのように、それぞれの個体に名前とかつけていたわけでもない。

 

贔屓しているのに、少し遠くてこの距離感がもどかしくて、おかしかった。

きっと、あの魚のかたちも好きだったけど、それ以上に私は安心を求めていたのだろう。

 

 

魚と暮らしても、あの水槽の中の世界を眺めることしかできないのだけれど。

 

 

 

考えたって答えの出ない不透明さと向き合うのは時に毒となる気がする。濁ってゆれる水面を見つめていると不安になってしまいそうだ。

 

 

何も考えず。何も分からないまま。今日も目を閉じる。

 

 

「さかなになりたい願いは叶わない」

 

 

おやすみなさい

 


the cabs"anschluss"

人魂で行く気散じや

昨日は5月5日。端午の節句だった。

兜を飾り、菖蒲湯にはいり、柏餅を食べて…と年中行事を楽しむ。

 

おうち的には、特別なアイスをこっそり買ってもらった。あと、お気持ちをいただいた。

昨年は何をしていたのか、これっぽちも思い出せない。実家にいるのんびりまったり生活も、授業開始に伴い卒業だろうか。

 

墓参りをした。

家を買って、そこに住む時間よりも墓で暮らす時間のほうが長くなるのかな。

昔はお経を読むことが好きだった。文字がいっぱい書いてあって。お経を読んでいる私に、微笑みながらお礼を言ってくれた人は元気だろうか。

笑っている姿ばかりを見ている。

 

まぶたを閉じて横になる。

ぶーん。羽音が聞こえてきて布団にくるまる。息が苦しい。

 

虫が苦手だ。虫(本体)も苦手だが、羽音はどことなく怖ろしい。

羽音がすると、寝付けないまま朝を迎えることもある。

 

いつだったか、「殺生はさけるんだよ。分かりやすく言うと、なるべく生き物を殺してはいけない。あの虫もね。私の生まれ変わりかもしれないからね」と言われた。

そこに身体があるのに転生するのか、とか思ったけどいわない。

その人がどこまで本気で言っていたのかはわからないし、いつだったか笑顔で、吸血した蚊を叩いた手を見せてきたこともある。

 

私だって、それを話半分でしか聞いていない。

だけど。あの虫がどこかに飛んでいくことを待ったまま、しまいには耐えきれず私が部屋を出ていった。どうしても躊躇ってしまうのだ。

あの虫は、どこか遠くで生きているのだろうか。

 

その話をしてくれた人は、今日も元気そうでした。

 

夏がきそうですね。

 

こどもの日だった。

 

 

 

 

優柔果敢

 

 

今日は朝早くに目が覚めた。

朝起きたら1階に行き、ソファで二度寝する。すっきりとした目覚めでも、そうでなくとも。二回寝られる。

ソファには、枕の羊が2人、アイマスクの羊1人、毛布、敷毛布と”快適なごろごろ”を追及している成果があらわれている。立派な巣になっている。

 

飼育員さんのような母の様子を伺い、朝ごはんを食べる。

ソファから椅子までの移動は意志との闘いだ。

大抵負けそうになる。

 

ソファから転がるように落ちると、巣から離れられるということを最近学んだ。

 

右足を出す。次は、左か。

床を踏み、スマートな二足歩行を披露する‥‥はずだった。

フラッ。視界がゆがむ。

 

気が付いたら顎とお尻をぶつけていた。

いわゆるめまいだ。

すごい音がしたらしく、2階から母親が「強盗ですか!?」と慌てて尋ねてきた。

 

そんな母が目にしたのは床に、おかしなポーズで倒れ込んでいる娘。

安心してください。強盗ではないです。そして、強盗かもしれないなら尋ねないでください。

 

 

顎とお尻を押さえながら、今日は珍しく外に出た。

まだ二足歩行は難しいのかもしれない。

買い物。

買い物も苦手なことの一つかもしれない。

いわゆる「優柔不断」でなかなか買い物ができない。どれも素敵に思えてしまう。

しかも困ったことに、欲しいものや大切なものであればあるほど、あれこれ下調べして悩んで…を繰り返してしまう。

それほど欲しくないものであれば、適当に買ってしまう。おそろしいことだ。

 

書店にて。

お友達から、伊吹亜門の本を勧められている。しかし、現在、ウイルスの影響でアルバイトもしていない収入はない。まだ文庫本ではない本‥‥。ステイか?

 

ここでとある親戚との会話が脳裏をよぎる。

「いや~私、衝動買いでメダルとれそう」彼女の家には、カタログだけ見て買ったピアノ、歩いていて欲しくなったマッサージチェア電気椅子?(電位治療器というらしい)(ピカチュウの気分が味わえる)などが並ぶ。

決して、世界を何十周もできるほど裕福な家庭ではないのに。(笑いながら、買った後はさすがに財布のひもを引き締めた話をしてくれた)

結局、ピアノもマッサージチェアも活用されており、彼女が無駄なものを買っている印象はないが、なぜか衝動は強いらしい。

我が家の「意見は出しても、決定は個人の自由意志に委ねる」というなんとなくルールも衝動に味方しているかもしれない。

さすがに、家の目の前に家を買ったときは驚いた。

 

一軒目の家を買ってしばらくした後は、リフォームなどで、「私の考えた最強の家」を実現させていた。

ある時、また衝動の神がやってきたのか、素敵な家を見つけたらしい。

町内の人も素敵な人だからなとか考えた結果、目の前にもう一軒建てた(買った)。

??

彼女曰く、一軒目にも特に不満はないらしい。ただ、素敵だったから…と。残念ながら私は、詳しくは知らない。

 

数年は、二つの家を行き来したり、公文式などに一部貸し出したりしていたらしい。

 

しかし、ここで彼女は気づいた。

「家、二軒もいらない?しかも目の前に。」

 

そこからも速かった。一軒目の家を手放す。

家を買ってくれた人が住宅関係の人だったらしく、さらに素敵に一軒目が改造されていた時には、目を輝かせていた。

 

今となっては、その家がそのままあれば別荘気分が味わえて、プチ合宿とかできたのにな~とも思うけど、やっぱり管理が大変だろうな。くぅ。

 

 

たまには、衝動を感じるか。

本。買いました。読みます。

 

伊吹亜門と冲方丁舞城王太郎森博嗣早見和真の本が新しく本棚に入りました。

 

 


Alice Francis - St. James Ballroom (Official Video)

 

 

I'm happy with you

 

 

いわゆるイタい文章やお気持ち表明をしたくないな、と意識し出したらブログ更新がとまってしまった。毎日、楽しく生きています。

 


life hack / Vaundy :MUSIC VIDEO

 

最近のこと。

とある日、朝まで友人と雑談をしていた。高校時代を思い出す。思い出話や今後したいこと・ゲームのことなど、話そうと思ったらいくらでも話せる気がする。

 

気のせいだから睡魔に負けた。

 

また別の日、東野圭吾容疑者Xの献身』について語り合う機会を得ていた。

次に、人と本について意見交流をするのはいつになるんだろうか。

 

 

本棚を眺めていると、その本を手に取った書店のこととか、当時のこととかが浮かぶ。

 

父と書店に行くと必ず、「なんかいい本あった?」と聞かれる。

「いいよ、ゆっくり見てね。せっかくだからお家で読んだら?」と続く。

帰りがけには、声をかけて本を差し出すまでがセットだ。

 

父は、車から降りると私に自分の本を袋ごと渡す。たぶん、知らないんだろう。

私が何の本を買ったのか。

レジに出す時とか見えることはあるだろうけど、それを意識して見ることをしない。

時折、「最近面白い本あった?」「最近、どういう本読んでるの?」と聞いてくることはあっても、問いただしてくることはない。

いつだって無理に「好き」を暴くことをしなかった。

 

この行動はずっと前からあったけど、こんな風に思うようになったのは最近のことだから、父にとって意図はなく、無意識なのかもしれない。

それでも、私にとっては、居心地の良いものだった。勝手に安心していた。救われていた。

 

 

先輩から、家族の話が多いね、優しい人ばかりだねと言われる。あくまで私目線の話だから、本当にこの通りなのかと言われたらよくわからない。

父も母も神様じゃない。良くも悪くもありふれた人間だ。

もちろん私も。

 

家族に対して、日常生活で思うところはあまりないが、「短所をあげよ」と言われれば、それはまぁいくつか上がる。何より私の性格がサイアクなので、嫌なところに焦点を当ててしあえば…。もちろん、ここでそれをあげるのはあまりにもアンフェアだし、かといって彼らがいるところで挙げることも、私的には許容しがたい行為である。それはもはや暴力。

  

 

さてさて、いくつかある次の読書会候補の本。その中の一つが、中山七里の作品だ。

私の本棚には、『さよならドビュッシー』や『さよならドビュッシー前奏曲』がある。

 

このシリーズの中で『おやすみラフマニノフ』が無かったのはなぜだろう。思い出す。

 

中学時代に生徒会の仲間に借りたのだ。

 

そういえば、どんな経緯で発覚したことかは忘れたが、会長だった私と彼を含む副会長二人の志望校が一緒だった。

いや、私の母がどちらかといえばあまり偏差値の高い高校には行ってほしくなさそうだけど、個人の意思を尊重する家庭だから反対もしてこなくて、でも行けるから、知り合いが通ってたから、一応志望校というだけで特に行きたい理由はない…逆に申し訳ないって伝えたら、二人が声をかけてくれたのか。

「皆で頑張って同じ高校に行こう!」と。

 

そんなようなことを言われたが、今のままで十分合格圏内であるし、一緒に集まっても生徒会の仕事をしているだけで、特段勉強もしていない。何の効力もない、その場のノリでできた精神的な約束のかけら。

 

 

生徒会室の鍵は閉めにくかった。鍵閉めに戸惑っていると、なんでもない口調で、ラフマニノフを貸してくれた子が「そういえば、普通科じゃなくて音楽科の高校行こうと思う」と伝えてきた。

 

眩しかった。第一に、やりたいことがはっきりしていることに。

実は、家政科に行くことも検討したが、そこまで将来のことに責任をもてず、とりあえず高校は普通科にしたのだ。他にもいくつか理由はあるけれども。

 

そして、何でもないことのように伝えたことに。

(もちろん、上記のように私はそこまでこの話を重く捉えていなかったので全く問題はないが。) 何でもないように伝えた方が救われることもあるだろうから、今ならその道を選べるかもしれない。だけど、当時の私がその立場なら、申し訳なさそうに、謝りながら伝える方法しか知らなかったし、それが正しいと思っていた。優先すべきは自分の決断・将来だとしても、誰かを傷つける可能性があるから。

 

私の中の(あくまで私の中の)大前提として、いかなる理由があろうとも人を故意に傷つけるような言動をとることはとても良くないことで、故意でなくとも人は傷つく。人を傷つけてしまうこともよくないことだ。

何が正しいのかなんてわからないし、正しさだけじゃ救われないものもあると思うのでそのあたりはお手上げしときます。

 

当時は、そんな“可能性”に臆病になっていたのだろう。

基本的に、今と同じく毎日楽しく充実して過ごしていたが、

ふとした時、誰かのなんでもないような一言まで自分のことを責めているようにきこえていた。傷つけられていると。

 

自分の中の後ろめたさや負い目、自信のなさによって、勝手にフィルターをかけて誰かの言葉の揚げ足をとっているだけかもしれなかったのに。

漠然とした自信のなさの理由付けをするように、また理由をすり替えるように、誰かのいつかの言動を拉致してきて、記憶の補正で形を整える。だって、誰かに言われたから。誰かのせいで。

“他者由来の自信のなさ”の出来上がりだ。

 

想像力豊かな私にとって、被害者になるのは簡単かもしれない。楽だし~。でも、その時、(もしかしたら勝手に)誰かを加害者にしていることに無自覚になりたくない。相手が誤解を招く言い方云々とか色々あるだろうけど、ここではいいや。

 

もちろん、繰り返すけど、いかなる理由でも人を傷つけてはいけないように、いかなる理由でも私が傷つけられてよい理由にはならない。

もし、傷つけられたら私は絶対に、「傷つけられた私」のことを大切にする。慰める。

 

メンタルがド安定しているのと、周りの人に恵まれているで、ここ数年、あまり傷ついたことはない。もし傷つけられそうなら、人間形態から変形したい。ダイヤモンドになりたい。どうせなら磨かれたい。嘘です。やっぱり、ラピスラズリがいいな。

もしくは、ターボエンジンになりたい。その負のエネルギーで作動します。

 

何でもないことで本気で傷つき、悩んでいたことを抱きしめたい。

悩むことも嫌いじゃないし、むしろ好きだし、今につながっているので、よいが、不必要に傷つかなくてもいいんだよ。

むしろ虚無ではないが無からよく、傷をつくれた!すごい!無から生まれた傷

でも、加害者を勝手に作っていたというのは穢れ。

 

あと、傷ついたことをあんまり教えたくない。傷を披露して、「そんなことないよ」のカツアゲをしない人間になりたい。

やっぱり、何もかも強要する人間になりたくないよ~。

無意識に人にそれを求めてしまってるのかもしれないけれど。

 

言葉をかけてくれる人のやさしさや、そんなことないという事実や視方から発せられた場合ももちろん多い。気遣っていってくれたこともあるだろう。

私だって、たくさんの何気ない「そんなことないよ」に救われた。

 

周りの人を大切に~とか思ったって、究極的には 、いつだって自分のことしか考えていないし、自分のことでいっぱい、いっぱいだ。

そういう言葉を無意識でも求めてしまうのかもしれない。

言ってくれたら嬉しいだったことに、いつの間にか慣れて、皆のやさしさに甘えて、言わなかったらひどい!に変換しないようにしたい。穢い。

 

 

今でも、「そんなことないよ」って言われたい朝も昼も夜だってあるのだけれど。

 

幸せになる覚悟、幸せを受け入れる覚悟をもって、今とその時を楽しむ準備を万全にしたい。

 

 

たぶん、私は一人でまだ準備中です。でも。